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第163回「ASKA Terminal Melody」〜ゲスト「コロッケ」さん

本日は、

「心に花の咲く方へ」
「モーニングムーン」

の2曲でした。
コロッケちゃんのリクエスト「モーニングムーン」は予想通りでした😀

コロッケちゃんとの出会いは、以前、ここで触れました。
それについては、改めて来週書かせていただきます。

今日は「モーニングムーン」を。

C&Aは、1979年ワーナーパイオニアから「ひとり咲き」でデビューした。
その後「万里の河」のヒットで、多くの方々に知ってもらうことになったんですね。
しかし、この「万里の河」のイメージが強すぎて長い間苦しむことになります。
その後、ヒット曲に恵まれなかったということですね。

そして1986年、レコード会社をキャニオンレコードに移籍します。
1985年2月5日にワーナーから最後のシングル曲を発表し、丁度1年後の1986年2月5日にキャニオンから「モーニングムーン」を発表しました。

今はもう無いですが、当時は「紳士協定」というものが業界では常識だったわけです。
それは、

「レコード会社契約終了から6ヶ月は、他のレコード会社と契約をしてはならない」

すごいよね。
今から考えたら、よくこれが「紳士協定」なるものだったと。
でも、そこは「昭和」。
守らなくてはならない空気だったわけです。

当時は、歌番組「ザ・ベスト10」が社会現象になっていた。
「ザ・ベスト10」に出ない歌手は「売れない歌手」と世間が判断した。

また「紳士協定」には、

「レコード会社契約終了から6ヶ月は、目立った活動をしてはならない」

と、いうのもあった。
今でこそ、レコード会社移籍はなんでもない出来事ですが、当時は「レコード会社から契約を切られたアーティスト」という世間の認識だった。

僕たちは、自らレコード会社との継続契約にサインしなかっただけ。
これ、普通の行為なんです。
でも、世間にはそうは映らないよね。
当時のファンの方々から

「負けないでください」
「必ず戻って来てください」
「音楽をヤメないでください」

それはそれは、たくさんのお手紙をいただいたものです。
ヤメるわけないじゃん。
でも、半年活動ができない痛手は確かにあった。
ラジオにも出演出来ないわけだから。

そうして半年間を「忍」で過ごし、僕たちはある行動に出た。
僕がよく言う「ピンチはチャンス」
僕たちは「忍」の6ヶ月間が明けた後、初めての「武道館公演」を行った。
今では、そんな風には感じないでしょうが、あの時のC&Aにとっては無謀な武道館だったのです。
だって、それに向かう満足なプロモーションが出来ないわけだから。

インターネットなどないんだよ。
まだ音楽雑誌にも出られない時だったから、ライブ告知にどれだけ苦労したことか。
それでも、本当に精一杯楽しんだ。

未来ある時間だったから。

その武道館公演を複数のレコード会社が観に来てくれた。
そして、紳士的な交渉を終え「キャニオンレコード移籍」を決めました。

モーニングムーンのリリースはワーナー契約終了から1年後だったけど、当時、僕は楽曲制作にコンピュータを取り入れることに夢中で、次のレコード会社のことはまったく頭になかった。
当時のマネージャー渡邊に任せてました。
なべさんね。

その時も、やっぱり「ザ・ベスト10」にランクインすることだけを考えての楽曲制作だった。
そうだね。
制作に明け暮れてたよ。

僕たちにすれば「キャニオンが迎えてくれた」
キャニオンは「C&Aがウチを選んでくれた」

この歯車が見事に動き出したんだね。
キャニオンはメンツをかけてプロモーション体制を敷いてくれた。

僕たちのテーマは「イメージからの脱却」だった。
楽曲制作は進んでいた。
移籍後のシングルは華々しくだったから、僕たちはキャニオンに移籍後第一弾シングルを決めてもらいました。

候補曲が2曲に絞られた。
そして、最後にキャニオンレードが移籍第一弾として選んでくれたのが

「モーニングムーン」

だった。

そのプロモーションの効果もあり、またイメージチェンジにも成功した「モーニングムーン」は、念願のトップ10入りを果たした。

今でも覚えてますよ。
「ザ・ベスト10」出演の日。

心が満ち溢れてた。

以前、語った用賀のマンション。
そう、「PRIDE」で歌った階段を降りて、車に向かうまでの間、空を見上げて、

「今日、この空を忘れないようにしよう」

と、胸に焼き付けたのでした。
真っ青な空だった。

そんな曲を、今日、コロッケちゃんが選曲してくれました。

ASKA(2024/3/17 21:22)