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時代を超える

ママの家は、僕の自宅から歩いて3分のところにありました(現在は、成田に住居を構えてる)。いつも、その家を見るとき、素敵な家だなと思い、眺めていたのです。日本では、あまり見かけない壁の色をしていました。ママの家におよばれした時に、ママのご主人を紹介されました。僕は、そのご主人を「なるパパ」と、呼ぶようになりました。なるパパは、当時の自分が弾いていたウッドベースを見せてくれました。




「これはドイツのウッドベースでね。1000万くらいしたかなぁ。」




触れるのが怖い。


昔、僕が幼かった頃「シャボン玉ホリデー」という番組がありました。クレイジーキャッツ(ドリフターズの師匠)の番組です。その番組のエンディングでは、切なくなるような音楽が流れました。とても印象的な終わり方でした。その音楽のベースを弾いていたのが、なるパパだったのです。強く記憶にすり込まれています。幼い頃に、なるパパの演奏を聴いていたのですね。




「なるパパは、もう弾かないんですか?」


「もう、指が動かないよ。ほら。」




指は、ベースの弾き過ぎで人差し指が90度近くに折れ曲がっていました。




「これじゃ、もうダメなんだよ。」


「それでも、それなりに弾けるんじゃないですか?」


「どうだろう?もう、昔のことだから。」




なるパパは、ウッドベースでしたが、アメリカではエレキベースが主流になってきているとういう話を聞いて、いち早く日本に取り寄せ、エレキベースの練習をしました。当時、日本でエレキベースを弾けるのは、なるパパだけだったのです。




間もなく、エレキベースが日本でも認められ出した頃の、なるパパのスタジオでの仕事は、一気に増えました。その頃、譜面はアレンジャーが細かく書き上げたものを忠実に弾くだけだったのですが、なるパパのセンスに脱帽したアレンジャーたちは、なるパパにはコード譜だけを渡しました。自由に、思いどおりに弾いてくれとのことだったのです。キメのフレーズ以外は、すべてなるパパのアドリブによって楽曲は纏まって行きました。現在の、スタジオミュージシャンの走りです。仕事は、多いときで一日に6つも7つもスタジオで演奏していたそうです。考えられない仕事量です。その後、なるパパは僕たちのライブに来てくれました。




ASKAさん、触発されちゃったよ。引退は引退と認めた自分のできごとだね。もう一度、ベースに戻ろうかな。」


「そうですよ。その気になれば死ぬ前までが現役ですよ。いつか、一緒にやれることがあればいいですね。」




なるパパは、音楽に戻りました。毎日の練習が始まったのです。胸が熱くなりました。




ASKAさん、今はコンピューターでの打ち込みの時代だね。どうだろ。僕に打ち込みを教えてくれないだろうか?」




もう、80歳になろうとしているミュージシャンがコンピューターを覚えようとしている。




「もちろんですよ。僕で良かったら、いつでもお家に行きます。」




なるパパとの深いお付き合いが始まりました。目の前で、プレイも見せてもらいました。素晴らしかったです。目を閉じながら、時にはメロディを歌いながら、演奏するのです。格好よかったですねぇ。




「なるパパ、現役プレイヤー顔負けですよ。それだけ指が動くんです。もったいないですよ。死ぬまで弾いて下さい。いつか、一緒にスタジオに入りましょう。僕の曲を弾いて下さい。」


「スタジオかぁ。懐かしいなぁ。」




それから、僕の頭の中には、いつもなるパパのプレイが鳴っていました。一生、音楽に向き合って欲しいと思ったのです。




数年後、僕はひとつの楽曲を完成させました。4ビートのジャズ曲です。プロデューサーの山里と、これをどういう風に仕上げようかと話し合いました。僕は、ためらいながら、なるパパの話をしました。出会いから、現在に至るまでの話です。ダメ元で話をしてみたのです。




「美しい話は、美しい話にしよう。現役のプレイヤーには敵わないよ。ASKAの胸にしまっておきな。」




そう言われると、思ったのです。しかし、そうではありませんでした。




ASKA、なるパパをスタジオに戻してあげよう。現役では敵わない味が出るかもしれないよ。ASKAの親戚の水野純交さんにも参加してもらおうじゃないか。」




レコーディングは、ビクタースタジオで行われました。なるパパは、さっそうとウッドベースを抱えて来ました。ミキシングルームに入って来て、まず最初に発した言葉は、




「これが今のスタジオですか。」


「そうです。すべてコンピューターで動いています。」


「やれるかなぁ。ご迷惑をおかけすることになるのではないですか?」




山里は言いました。




「僕たちは、なるパパと仕事がしたいんですよ。シャボン玉ホリデーのあの素晴らしい演奏をされていた方です。とても光栄です。」




数分後、水野純交さんがスタジオに着きました。なるパパと純交さんは、大きな声を上げ、握手をし、抱き合いました。そして、なるパパは譜面に目をとおすと、それを持って、そのままブースに入って行きました。誰よりも先に行動したのです。




マイクをとおして、なるパパが語りかけてきます。




「夢のようです。今から、弾かせていただきます。」




一度、楽曲を聴いてもらってから、プレイをしてもらおうと思っていたのですが、なるパパは、もう2番からプレイを始めました。僕たちは、これを逃してはならないと、直ぐにレコーディングボタンを入れました。




「なるパパ、カッコいい!素晴らしいじゃないですか。まだまだ、現役ですよ。」




譜面が小さすぎて、コードが追えないとのことでしたので、直ぐに譜面を拡大し、それを渡しました。何度も、何度もやり直します。もう、僕たちのなかでは、十分にOKテイクなのですが、なるパパは妥協しませんでした。ママは、涙を流しながら、その光景を見つめていました。




ASKAちゃん、ありがとう。ありがとう。また、再びパパのプレイを見れるなんて・・。」


「何、言ってるんですか。僕たちは光栄ですよ。」




そうして、なるパパのプレイが終わりました。




「僕は、こんな日がやって来るなんて夢にも思っていませんでした。勇気くれてありがとう。」




皆、涙腺が緩みました。世代を超えてひとつの音楽が生まれようとしているのです。音楽は素晴らしい。純交さんも同じでした。なるパパのプレイに刺激されたのでしょう。




「純交さん。この曲は純交さんの思うがままに吹いて下さい。決まりごとは、何にもありません。すべてアドリブでお願いいたします。」




まだ、歌詞のついていない僕のボーカルの隙間を縫いながら、目を閉じて吹いています。どのメロディも楽曲を持ち上げてくれるものでした。完成までに、時間はかかりませんでした。山里が言います。




「水野さん、素晴らしい。メロディの宝庫ですね。すべて使わせてもらいます。」




ふたりの心の中に生まれたものは、どんなものだったのでしょう。パパのプレイを見守るママの後ろ姿。これにやられた僕は、間もなく「背中で聞こえるユーモレスク」という詞を書き上げました。




「なるパパ、純交さん。いつかステージでこの曲を一緒にやりましょう。」




ふたりは握手を交わし、連絡先を教え合い、スタジオを後にしました。


これが、音楽なんです。すべての交わりです。心に残る日となりました。


つづく・・。


ASKA


COMMENT

時代を超えるのコメント

  • ニックネーム:sorairoice
    おはようございます。ASKAさん。
    いつもありがとうございます。
    昨日。エントリーで、コメントされた方の、書き込みで知りました。
    水野純交様
    ご冥福をお祈り申し上げます。
    『背中で聞こえるユーモレスク』
    聴かせていただきながら、偲ばせていただきたいと、想います。

    ASKAさん、いつもブログの更新をありがとうございます。
  • ニックネーム:usagi1gou
    おお・・!
  • ニックネーム:
    ASKAさんの生きている音楽の世界は素晴らしい。
    羨ましいです。

    みんなで成し遂げだ時の喜びはもう凄いですね。
  • ニックネーム:yrinchu
    ♡♡
  • ニックネーム:makoto660224
    僕は今50歳です。

    20歳の頃から本格的にチャゲアスを聴くようになりました。

    当時は歌謡曲には全く興味がなく、ギター演奏に夢中だったのです。
    ヘタクソでしたがね。

    ある日、いつもの床屋に行くと天井に吊るされたテレビにチャゲアスのライブ映像が流れていました。

    曲名は後から調べて判ったのですが『Love Song』でした。

    普段なら気にも止めない歌謡曲なのですが、メロディと歌声が耳から消えなかった。

    床屋を出ると、その足で貸しレコ屋に行き、チャゲアスのアルバムを借りて帰りました。

    それ以来僕はチャゲアスとそしてASKAの信者となってしまったのです。

    人前では歌なんて唄えもしなかった僕でしたが、当時はカラオケボックスなるものが流行り出したおかげもあり、職場の仲間と唄いに行く機会が増えました。

    今では、今でも毎晩のように風呂に入れば大声で唄ってます。

    影武者を務める自信があるほどにまで成長しました。

    唄嫌いの僕の人生を大きく変えてくれたのはASKA さんです。

    誕生日が同じであることは後から知ったのですが、運命的な出逢いであったのだと、勝手ながらに親近感さえ抱いています。

    新しいアルバムを心待にしてますよ。