九死に一生・・・
3月11日になると、いつもこの話を思い出します。
以前、僕はカルマンギアという車を所有していることを、お伝えいたしました。
流線型のフォルムが、とても気に入っていまして、一目惚れでした。
なにぶん昔の車ですので、現在は、修理しようにもしっかりと使えるパーツが無く、
外見だけをカルマンギアにし、エンジンなどは現代のフォルクスワーゲンのものに積み替えました。
それを引き受けてくださいましたのは、仙台の会社だったのです。
今年の9月28日までは、車の運転は控えなくてはならないため、
今、そのカルマンギアは仙台にあります。
その会社の社長さんは、女性でして、
今現在も、メールのやり取り、電話などで連絡を取り合っています。
2011年の今日。
その社長さんは、仙台ですので、あの日の震災で、被災者となりました。
その恐怖の出来事を、リアルに語ってくれました。
第一波の津波が押し寄せたときに、無我夢中で逃げたと。
会社・・・自動車工場ですよね。
何もかも無残な状態になったのです。
しかし、命は守れた・・・。
その第一波で、生き延びることができたと思った人たちは、
皆、自宅に残ったであろう貴重品を取りに向かおうとしたそうなのです。
その時に、消防団から、
「戻ってはいけません!! 戻るな!!!」
と、怒鳴るような口調で制止されました。
しかし、それを振り切り、自宅に向かった人たちがほとんどだったと。
社長さんも、戻ろうとしたそうなのですが、やはり社長さんは女性ですから、
消防団の怒鳴る声を目の前で浴びてしまい、その迫力に足がすくんでしまったことを話してくれました。
結局、戻ることが出来なかったのですね。
そこが、命の分かれ目でした。
まもなく、一度目の津波より、更に大きな第二波が街を襲い、
その時、消防団の制止を振り切って家に戻った人たちは、帰らぬ人となってしまいました。
大津波の場合「第二波」というものがあることを、消防団の方たちは知っていたのですね。
2011年の大津波により、我々日本人は「第二波」「第三波」の存在と怖さを知りました。
大地震により引き起こされる「津波」があることは知ってても、
「第二波」「第三波」を、明確に知っていた人は、どれほど居たでしょう?
大津波に襲われた昔の人たちは、未来の僕たちに何とか伝えようと、
「ここまで津波が押し寄せた」とマーキングをしてくれていました。
1億3000万の、この国の人口をして、
いつの間にか、昔の人の警告は警告の力を失っていました。
しっかりとした記録を残せる我々が、未来の人たちに伝えるべきこと、そして、その責任は重大です。
先日、僕が「還暦」という人生の節目により、 肉体の変化を迎えたように、
地球にも、地球のサイクルで変動は起こっています。
地球は生命体ですからね。
天災は、様々な形で姿を現します。
この星で生きている以上、それを回避することはできません。
地球の変動期のまっただ中で生きている我々は、
「その時、自分は」
を、胸に抱えておくことが必要だと思っています。
そんな僕が、とても恐れていることがあります。
しかし、恐れていても自然の驚異の前では、人間は無力です。
「そうはならない」
「だって、そうはならないから」
こう、思うことが、「自分の世界」「自分の現実」をつくって行くことになると信じて疑いません。
未来には希望を見いだしましょう。
間もなく、あの日の時間を迎えます。
僕は、東京で「黙祷」に、参加させていただきます。
ASKA(2018/3/11 12:55)
以前、僕はカルマンギアという車を所有していることを、お伝えいたしました。
流線型のフォルムが、とても気に入っていまして、一目惚れでした。
なにぶん昔の車ですので、現在は、修理しようにもしっかりと使えるパーツが無く、
外見だけをカルマンギアにし、エンジンなどは現代のフォルクスワーゲンのものに積み替えました。
それを引き受けてくださいましたのは、仙台の会社だったのです。
今年の9月28日までは、車の運転は控えなくてはならないため、
今、そのカルマンギアは仙台にあります。
その会社の社長さんは、女性でして、
今現在も、メールのやり取り、電話などで連絡を取り合っています。
2011年の今日。
その社長さんは、仙台ですので、あの日の震災で、被災者となりました。
その恐怖の出来事を、リアルに語ってくれました。
第一波の津波が押し寄せたときに、無我夢中で逃げたと。
会社・・・自動車工場ですよね。
何もかも無残な状態になったのです。
しかし、命は守れた・・・。
その第一波で、生き延びることができたと思った人たちは、
皆、自宅に残ったであろう貴重品を取りに向かおうとしたそうなのです。
その時に、消防団から、
「戻ってはいけません!! 戻るな!!!」
と、怒鳴るような口調で制止されました。
しかし、それを振り切り、自宅に向かった人たちがほとんどだったと。
社長さんも、戻ろうとしたそうなのですが、やはり社長さんは女性ですから、
消防団の怒鳴る声を目の前で浴びてしまい、その迫力に足がすくんでしまったことを話してくれました。
結局、戻ることが出来なかったのですね。
そこが、命の分かれ目でした。
まもなく、一度目の津波より、更に大きな第二波が街を襲い、
その時、消防団の制止を振り切って家に戻った人たちは、帰らぬ人となってしまいました。
大津波の場合「第二波」というものがあることを、消防団の方たちは知っていたのですね。
2011年の大津波により、我々日本人は「第二波」「第三波」の存在と怖さを知りました。
大地震により引き起こされる「津波」があることは知ってても、
「第二波」「第三波」を、明確に知っていた人は、どれほど居たでしょう?
大津波に襲われた昔の人たちは、未来の僕たちに何とか伝えようと、
「ここまで津波が押し寄せた」とマーキングをしてくれていました。
1億3000万の、この国の人口をして、
いつの間にか、昔の人の警告は警告の力を失っていました。
しっかりとした記録を残せる我々が、未来の人たちに伝えるべきこと、そして、その責任は重大です。
先日、僕が「還暦」という人生の節目により、 肉体の変化を迎えたように、
地球にも、地球のサイクルで変動は起こっています。
地球は生命体ですからね。
天災は、様々な形で姿を現します。
この星で生きている以上、それを回避することはできません。
地球の変動期のまっただ中で生きている我々は、
「その時、自分は」
を、胸に抱えておくことが必要だと思っています。
そんな僕が、とても恐れていることがあります。
しかし、恐れていても自然の驚異の前では、人間は無力です。
「そうはならない」
「だって、そうはならないから」
こう、思うことが、「自分の世界」「自分の現実」をつくって行くことになると信じて疑いません。
未来には希望を見いだしましょう。
間もなく、あの日の時間を迎えます。
僕は、東京で「黙祷」に、参加させていただきます。
ASKA(2018/3/11 12:55)
COMMENT
九死に一生・・・のコメント
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ニックネーム:事情により匿名希望あの日あの時、、、
母とテレビにしがみつき
「逃げて〜逃げて〜」と叫びました。。。
トラックの上に登り、必死にヘリコプターにSOS。手を力一杯振っていた男性。
高台の階段が混雑して、登りきれてない方々が波にのみ込まれた。
3.11あの日あの時、無数の命の灯が消えた。
3.11あの日あの時、産声をあげた赤ん坊。
命って。。。人生って。。。
春の桜のようです。 -
ニックネーム:あいのめASKAさんは強いですね。「恐れ」は「畏れ」なんだと私は最近思います。変えられないことでも巡り巡りくることでも。2013年に出された東日本大震災f復興支援アルバム『僕にできること』。このCDが出された時のライブのASKAさんの言葉が強く残っています。私はなにもできないけど8年目も未来へ思い続けていこうと思いました。
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ニックネーム:しぃこ私の家も流されました。
仙台の少し南にある、名取市閖上という街です。
もう、7年か· · ·
まだ、復興には程遠い東北です。 -
ニックネーム:kirakira5710なんと素晴らしい方なんだろう。自分の命を捨ててまで人の命を最後までま揺らがないで守り通されたその姿に
😢涙しました。 どんな方なのか?知りたいと思ったのですがその後その女王性について何も言われなく凄く
残念な気持ちになったものです。歴史は繰り返すって耳にするけど誰がそんな事言うのだろう?不思議でたまらない
(?_?) こんな悲惨な地震もまたいつかは繰り返されるのだろうか?愚かな人間は...m(__)m独り言です👋 -
ニックネーム:もりなが私の住む所は西日本の日本海側で、震災には直接関わっていません。生まれてこの方震災は経験したことがありません。せいぜい震度5程度。
だからでしょうか。あんなショッキングな事が起きても、どこかで「私は大丈夫」と思ってしまってます。まだまだ多いと思います、そういう人。
そんな私もそういった傲慢な気持ちに抗って防災バッグを買い、毎年その日には点検、追加をすることにしました。
あの震災が私の意識を変え、家族の命を救ってくれる未来にしてくれたと思ってます。