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「ジャニーさん」、そして「光GENJI」

コメントに「ジャニー」さんのことが多く書かれていました。

「ジャニーズ」の、「ジャニーさん」「メリーさん」には、本当に良くして頂きました。

1986年に、レコード会社「ワーナーパイオニア」から「ポニーキャニオン」に移籍し、
その年は公約通り、1年間に、シングル4枚、アルバム3枚をリリースいたしました。

1983年頃、音楽業界にコンピューターが現れ、C&Aはいち早くそれを導入いたしました。
コンピューターから送られてくる信号をアナログ24チャンネルテープレコーダーに取り込み、
その録音された信号と録音機を「同機」させてレコーディングをする手法でした。

しかし、それは、ミュージックシーケンサーの走り「MC4」と呼ばれる「4トラック」しか使えないものでしたし、
今から振りかえれば、まだまだ「オモチャ」のようなものでした。

操作は、非常に複雑でしたが、それを操作する「マニピュレーター」という、新しい職業が音楽界に現れました。
スタジオではアレンジャーの譜面が届いてから、データの打ち込みが始まりますので、
13時にスタジオ入りしても、「マニピュレーター」がデータを打ち込み終わるのは、5~6時間後・・・。
もっとそれ以上後に、ようやく音出しが始まりましたね。

1985年、僕は同郷福岡の「センス」という二人組とデモテープ制作をいたしました。
場所は、世田谷の1室でした。

「スタジオでやっていたことが、マンションの1室で、できた・・・」
「これを覚えれば、アレンジャーにすべてを任すことなく、僕も自宅で自分の描く音を、時間に縛られることなくできるじゃないか・・・」

当時、レコーディングスタジオは1日で20~30万円かかっていました。

「これからのレコーディングスタイルは、これだ」と思ったんです。

僕は、すぐに機材を部屋に導入し、1からアレンジを勉強いたしました。

勉強ではないな。

自分のスタイルで音を構築し、デモテープの段階で、ほぼ完成されたモノをアレンジャーに渡し、
自分の世界観とズレがないよう音楽制作ができるようにしたというだけで「勉強」という言葉ではないですね。

音楽業界の変わり目だと確信したのです。

これからは、これをやれるミュージシャンが「新しい人」。
やれないミュージシャンは「古い人」と、分類分けされることになると感じたのです。

1曲のデモテープをつくるのに、三日三晩寝ないで作業をすることも珍しいことではありませんでしたので、
周りからは、

「ASKAは、危ないオモチャを手に入れてしまった」

と、言われてました。

1曲への拘りが、「執念」に近いモノになった頃です。

作業は鍵盤でした。
それまで、作曲に苦労していた僕が、怒濤の大量生産に入ることが出来たのです。

ですので、上でお伝えしましたように、
ポニーキャニオンに移籍した年に、シングル4枚、アルバム3枚のリリースができました。

音楽業界が、C&Aに注目し始めてくれるできごとになりました。

そのような勢いを冷静な目で見てくれていた人がいました。
それが、ジャニーさんでした。

それまでの「ジャニーズ」のシンガーの曲をつくっていたのは、先生と呼ばれる作曲家陣でした。
ジャニーさんは、これからデビューさせるグループの曲を、それまでの「作曲家」ではない、
いわゆる「シンガーソングライター」に、任せてみようと冒険をされました。

「ジャーニーズ」の音楽の流れが変わった切っ掛け、そしてプロデュースの成功となったわけです。

それに抜擢されたのが「C&A」でした。

ジャニーさんが、楽曲の依頼と説得のために、一人でスタジオに来られたのです。
最初は戸惑いました。

「『光GENJI』という7人の少年で、ローラースケートをさせて歌わせたい。ミュージカルの「スターライトエクスプレス」が、ヒントになりました。それを歌謡界に持ち込めば、世の中へ与えるインパクトは私の想像を超えるものになるかもしれません」

僕は、あのジャニーさんが、一人でスタジオに来られ、
自分の育てるアイドルに情熱を傾ける姿を見たのです。

その場で、お返事をさせて頂きました。

「光栄です。ひとつだけ、お願いがあります。僕(ぼくたち)にとっても冒険です。そのようなインパクトを持った新人なら、楽曲の良さとは関係の無い売れ方をするかもしれません。そうなると、デビューシングルが頭でっかちの売れたかとなっては、楽曲の力は度外視されることになります。1曲目よりも2曲目。そして2曲目よりも、更に3曲目と、彼たちを大きくすることができるよう、3曲目までは、やらせていただけないでしょうか?」

話は、その日に決まりました。

デビュー後の「光GENJI」は、今更、僕が語ることもないでしょう。
「社会現象」となりました。

日本中が「光GENJI」一色になりましたからね。
「新人賞」を超えて、いきなり「レコード大賞」を受賞したのは、音楽業界において、

「光GENJI」

だけです。

ジャニーさんの「ジャニーズ」タレントに向ける愛情、情熱。
そして、類い希なるプロデュース能力。

僕(僕ら)は、「プロデュースとは?」を、学ばせて頂きました。

心よりご冥福をお祈りいたします。


実は、
1昨年の夜、突然、解散していた「光GENJI」が、全員集まったところに呼ばれたんです。
彼たちは「デビュー30年」を、機会に、1年だけ「光GENJI」で、ツアーを行いたいと。

全楽曲を書いてくれないだろうかと。

まだ、僕は世間では活動ができないころでした。
そんな中でも、全員が集まってのプロデュースの話を受けたのです。

断るわけないじゃないですか。

あの頃の「光GENJI」のファンだった方々は、もう、お母様となり、そろそろ育児の手も離れた頃でしょう。
そんな方々に、

「1年だけ、あの頃の自分たちに戻りあおう!」

が、テーマでした。

僕は、翌日から、楽曲制作に入り、すぐに7曲書いたんです。

ところが、制作だけは進んでいたのですが、難しいことろに座礁してしまいました。
彼たち7人は、もう、それぞれを生きています。

ジャニーズ事務所に所属しているもの。
個人事務所を抱えているもの。
別の仕事をしているもの。

会社が異なれば、それぞれの会社の方針というものがあります。
そして、なにより、

「光GENJI」

と、いう名は、「ジャニーズ」にありますので、
全員が、「ジャニーズ」に戻れば、それも可能だったかもしれません。

例えば、個人の事務所から、「ジャニーズ」に出向と、いう形は取れないだろうか?

など、いろんなアイデアも出てきました。

「ジャニーズ」も、いろいろ考えてくださったのですが、
様々な思いと期待、希望を張り巡らせてるうちに、「30周年」が、過ぎてしまいました。

残念ながら、実現には至りませんでした。

僕が書いた7曲は、「大人になった『光GENJI』と、ファンたち」に、向けた曲でした。
どれも、自信作であり、今回の、僕のニューアルバムには、その中の曲が1曲だけ収められています。

いつか、彼たちが、再び集まれるときのために、
残りの楽曲は、ずっと残しておきますね。



ASKA(2019/7/12 15:27)